灯台かもめ -livingston-

くだらないヒラメキをいつまでも大事にしてきたいもんだ

手は死んだのか?

 

物を捨ててお部屋を整えてくほど、なんとなく退屈さと物足りなさを感じる理由がわかった。

 

 

こないだセカストに行ったとき、藤でできたでっかいチェストがあった。

 

見た瞬間、あ!って思った。サイズはこれより小ぶりだけど、まったく同じような藤のチェストが昔、実家にあった。今は処分されてもうない。

実家の藤のチェストには、妹と私の下着とTシャツと長袖と靴下が入ってた。
引き出しはスッと出てこなくて、引っ張ると左右にガタガタする。引き出しの中はベニヤ板っぽくて、パサパサ、カサカサしてる。引っ張りにくいな、って思ったこともあったかもしれないけど、ともかくその感触ははっきり覚えてる。
すると中に入ってたTシャツまで思い出してくる。パキッとしたオレンジに、紺色のインディアンがかかれたやつ。なんであんなの選んだんだっけ。
それから.トルコ石みたいなどぎつい水色のTシャツで、胸のロゴは白かったはず。あれは姉ちゃんからのお下がりだったな。

 

藤のチェストをみただけで、そんなことが次々と思い出してくる。それは紛れもなく、他とは違うたくさんの「感覚」が伴ってるから。
この手を通してたしかに感じた「なにか」の記憶がたくさんあるから。

 

 

無印のポリプロピレンケースで、同じことができるだろうか。
それはよその家の物と違う「感覚」で、自分固有の「手の記憶」になりうるんだろうか。

 

 

イタリアの神経生理学者カルロ・ペルフェッティの言葉で、「手よ、手は死んだのか?」ってのがある。
本を読む時のページをめくる感覚や、古びた紙の匂い。
大豆を収穫する時の、土の感触や粒の感触。
それらは今、電子書籍やコンバインに取って代わられてる。技術の進歩とともに、感覚のレスポンスが圧倒的に少ない無機質な操作が増えてきて、かつて様々な感触や記憶や時に感動を伝えてくれた手は、今はもう死んだのか?って、そういう言葉。


何を大事にするかは人それぞれだから、無印の収納ケースを使う人を糾弾するつもりは全くない。ていうかうちも無印使ってるし。

 

でも、うちは少なくとも、生きてる手と一緒の暮らしがいい。
だからおしゃれさを追求するあまり、逆に無機質になるのは避けたい。無駄や不便さがあっても、その感触もあったかい「手の記憶」になる、そんな「暮らし感」のある暮らしを作ってきたい。

という自戒をこめたひとりごと。